ノルウェーの森 Paper

20416 Words May 18th, 2013 82 Pages
ノル゙゚ーの森 村上春樹 第一章 僕は三十七歳で、そのときボー゗ンィ 747 のオートに座っていた。その巨大な飛行機は ぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、 ハンブルア空港に着陸しようとしているところだった。 十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空 港ビルの上に立った旗や、BMW の広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の 背景のように見せていた。やれやれ、またド゗ツか、と僕は思った。 飛行機が着地を完了すると禁煙のエ゗ンが消え、天井のガピーゞーから小さな音で BGM が流れはじめた。それはどこかのゝーイガトラが甘く演奏するビートルキの 『ノル゙゚ ゗の森』だった。そしてそのメロデゖーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつも とは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。 僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとし ていた。やがてド゗ツ人のガゴュワーデガがやってきて、気分がわるいのかと英語で訊い た。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。 「本当に大丈夫?」 「大丈夫です、ありがとう」と僕は言った。ガゴュワーデガはにっこりと笑って行ってし まい音楽はビリー・カョ゛ルの曲に変った。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲 を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた 時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。 飛行機が完全にガトップして、人々がオートベルトを外し、物入れの中からバッィやら 上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、 …show more content…
あがってくる。と てもくっきりと。それらはあまりにくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ 指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もい ない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と 僕は思う。どうしてこんなことが起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたもの は、 彼女やそのときの僕や僕の世界は、 みんなどこに行ってしまったんだろう、 そう、 と。 僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のな い背景だけなのだ。 もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思いだすことができる。小さな冷たい手や、 さらりとした手ざわりのまっすぐなきれいな髪や、やわらかな丸い形の耳たぶやそのすぐ 下にある小さなホアロや、冬になるとよく着ていた上品な゠ャメルのウートや、いつも相 手の目をじっとのぞきこみながら質問する癖や、ときどき何かの加減で震え気味になる声 (まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった)や、そんな゗メーカをひとつ ひとつ積みかさねていくと、ふっと自然に彼女の顔が浮かびあがってくる。まず横顔が浮 かびあがってくる。これはたぶん僕と直子がいつも並んで歩いていたせいだろう。だから 僕が最初に思いだすのはいつも彼女の横顔なのだ。それから彼女は僕の方を向き、にっこ りと笑い、少し首をかしげ、話しかけ、僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちら りとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。 でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間がかかる。そし て年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなってくる。哀しいことではある けれど、それは真実なのだ。最初は五秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒 になり一分になる。まるで夕暮の影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくや がては夕闇の中に吸いこまれてしまうことになるのだろう。そう、僕の記憶は直子の立っ ていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた 場所から確実に遠ざかりつつあるように。そして風景だけが、その十月の草原の風景だけ が、まるで映画の中の象徴的なオーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かん でくる。そしてその風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。おい、起きろ、 俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのか というその理由を。痛みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたびにうつろな音がする だけだ。そしてその音さえもたぷんいつかは消えてしまうのだろう。他の何もかもが結局 は消えてしまったように。しかしハンブルア空港のルフトハンォ機の中で、彼らはいつも より長くいつもより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ 僕はこの文章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事を

うまく理解できないというゲ゗プの人間なのだ。 彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ? そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。そんな井戸が本当に存在したのかどう か、僕にはわからない。あるいはそれは彼女の中にしか存在しない゗メーカなり記号であ ったのかもしれない――あの暗い日々に彼女がその頭の中で紡ぎだした他の数多くの事物 と同じように。でも直子がその井戸の話をしてくれたあとでは、僕ほその井戸の姿なしに

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